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なぜ源氏は壇ノ浦で平氏に圧勝できたのか?~勝つべくして勝つために~

      2017/02/14

 

壇ノ浦

 

義経の率いる源氏軍による奇襲攻撃によって屋島を追われた平氏は、船で瀬戸内海を西へ進み、壇ノ浦方面に向かいました。壇ノ浦とは、現在の福岡県門司港と山口県下関の間に位置します。

 

この壇ノ浦で行われた源氏と平氏との海戦により、平氏一門が滅びたことは多くの人がご存知だと思います。

 

安徳天皇は平清盛の妻である平時子と共に海に入水して命を落としました。

 

三種の神器のうち二つを源氏は取り戻しました。

 

さらに、平氏の主だった将も討ち取られるか、海に身投げするか、あるいは捕まります。

 

つまり、戦いは一方的な源氏の大勝利に終わったのです。

(上の写真は、安徳天皇が祀られている水天門です。)

 

壇ノ浦の戦いにおける源氏の勝因

 

しかし、壇ノ浦の戦いは、どうしてそのような一方的な戦いになったのでしょうか。

 

特に、平氏は源氏に比べて圧倒的に優勢な水軍を持っていたので、海戦は平氏に有利だったはずです。

 

この点、源平の戦いを扱った歴史小説などでは、この壇ノ浦の戦いにおける源氏の勝因は、壇ノ浦における潮流であるとしているものもあります。

 

壇ノ浦あたりの潮の流れは非常に激しいと言われています。

 

壇ノ浦の戦いの日、最初に戦を仕掛けたのは平氏でした。

 

それは朝の8時半頃だったと言われています。

 

この時間から、潮の流れは平氏が陣取っていた田ノ浦から源氏のいる方向へと流れます。

 

この間、平氏は少し漕げば源氏の方向へ力強く進み、一方の源氏は平氏の方向に向かおうとして必死で漕いでも、潮の流れが邪魔をして思うように平氏の方に進み入ることができません。

 

そしてこの潮の流れは、時間を追うごとにどんどん勢いを増していきます。この間、有利に戦いを進めることができたのは平氏だったはずと言われています。

 

しかし、この潮の流れは午後3時頃に一旦止まり、その後は西から東へ、つまり、源氏軍から平氏軍の方向へと流れていったとされております。

 

こうなると、一気に形勢は逆転し、この時間以降は源氏にとって有利になったそうです。

 

源氏は、自分たちにとって不利な潮の流れの時間帯ではひたすら耐え抜き、ひとたび潮の流れが変わると一気に攻め立て、とうとう平氏を滅ぼした、とされています。

 

ただ、この壇ノ浦の潮の流れがどの程度戦いに影響を与えたものなのか、という疑問を持つ専門家もいるようです。実際、この壇ノ浦の潮の流れを調査し、勝敗に影響するほどの勢いの潮の流れではなかったのではないか、という考えもあるようです。

 

 

 

勝つべくして勝つ

 

この点、私は、義経の「勝つべくして勝つ」という戦への臨み方が、源氏の最大の勝因なのではないかと感じています。

 

平氏が安徳天皇と三種の神器を伴って屋島から瀬戸内海を西に向かい、次は壇ノ浦あたりで海戦になるだろうと予想した源義経は、次は得意の奇襲は使えないと思ったことでしょう。

 

というのも、奇襲するためには、平氏に気づかれないようにして接近する必要がありますが、一ノ谷と屋島の戦いで連続して義経は奇襲をかけて成功しています。奇襲攻撃に対して、平氏は相当注意をしていたことでしょう。

 

その他、地形的な観点からも、奇襲は難しかったのかもしれません。

 

そこで、奇襲攻撃は使えないと考えた義経は、このままでは次の戦いは源氏にとって極めて不利な条件で戦わなくてはならなくなると予想しました。

 

というのも、相手は強力な水軍を擁する平氏です。まともに正面から戦っては、源氏に勝機はないでしょう。

 

そして、源氏は海戦に自信がなかったからこそ、屋島に向けても暴風雨の中船を出したはずです。

そこで義経は、平氏と正面からぶつかって戦わざるを得ないと悟や、奇襲は無理だと諦め、この正面衝突で勝利を得るための方法を考えました。

 

義経は、平氏よりも圧倒的多数の船を準備することにしたのです。

 

古来、戦で勝利を得るためにもっとも確実な方法は、兵の数で相手を圧倒することだったでしょう。

 

単純に考えても、一人の敵に二人以上で本気で向かっていけば、敵の一人がいくら喧嘩の強い者であったとしても、何とか勝てるような気がします。

 

義経は、得意の奇襲攻撃を封じられたこの壇ノ浦の戦いに当たって勝利を確実に掴むためには、まさに数で平氏を上回ることを目指しました。

 

具体的には、屋島の戦いの後、約1カ月の間、平氏のいる壇ノ浦に姿を現しませんでした。そしてその間に、味方の船を増やすことに注力しました。「船の数は多ければ多いほど良い」そう考えたようです。

 

その結果、義経は800艘を超える船を揃えます。

 

対する平氏は500艘とされているので、約300艘も源氏が上回っていたことになります。

 

義経がこの「船をできるだけ多く集める」ということに対して如何に拘ったのかがこの数字からも読み取れるのではないでしょうか。

 

 

 

なぜ800艘もの船を揃えることができたのか?

 

ところで、なぜ義経はこんなにも多くの船を集めることができたのでしょうか。

 

屋島の戦いの時は、瀬戸内海の沿岸に水軍を持つ武士団の多くは平氏に味方していたはずです。どのようにして平氏をはるかに上回る船を手にしたのでしょうか。

 

実は、屋島の戦いで、少数の義経率いる源氏が平氏を追い払ったことで、瀬戸内海沿岸にいた水軍を持つ武士達が、「もはや勢いは源氏にある」と考え、次々と義経の味方に付いたことが原因のようです。

 

屋島を逃げた平氏は、単に屋島を失っただけではなく、瀬戸内海沿岸の味方までも失ってしまったと言えるでしょう。

 

 

 

義経らしくない?

 

ところで、私は、源氏が屋島の戦いの後1カ月かけて800艘もの船を揃えたことを知ったときに、「義経らしくないな」と思いました。

 

というのも、私にとって義経は、常に、「考えるよりも先に行動するタイプの人であり、戦いの準備のために長い時間をかけるのは、よくないことだと考えているのだろうな」と思ったためです。

 

しかし、改めて義経の壇ノ浦の戦いまでの戦い方を調べ直したところ、そうではないということに気が付きました。

 

屋島の戦いの時も、実は京都を出発してから船で四国に渡海するまでに1カ月の期間を設けております。

 

一ノ谷の戦いの時はさほど時間をかけていないように思えますが、京都に入る前には、3カ月もの間、京都の郊外で待機しています。

 

どちらの場合も、勝機を得るために情報収集し、そして、戦略を立てていたのではないでしょうか。

 

そう考えると、実は義経は、「勝つための作戦を相当入念に立てる人物だった」と思えてくるのではないでしょうか。

 

義経は、壇ノ浦の戦いが、普通に戦えば源氏が負ける可能性が高いと十分知っていました。

 

しかし、負けるわけにはいかないと思っていました。

 

ここで負ければ、平氏は一気に勢いを盛り返し、一ノ谷の戦い以降の源氏の勝利が無駄になる。なんとしても、この海戦で平氏に勝たなくてはいけない。

 

そう思ったからこそ、はやる気持ちを抑え、1カ月間かけてでも、800艘という圧倒的な数の船を揃えたいと思ったのでしょう。

(上の写真は、現在の壇ノ浦です)

戦う前にするべきこと

 

私たちは、人生の中で数多くの競争にさらされます。受験、スポーツ、就職活動、そして就職後も、社内外で戦いがあります。

 

その戦いにおいては、王道とされる正攻法があるのだろうと思います。

 

その正攻法とは、勝つときもあれば負ける時もある、という不安定なものではなく、それに従えば誰もが勝てる、という方法です。小手先のテクニックではない、運不運に左右されない、勝つべくして勝つ、という方法です。

 

勝負においては、多くの人が準備をすることでしょう。一生懸命努力するでしょう。しかし、勝敗が必ず付きます。その両者を分けるのは、この正攻法を見つけることと、見つけた後それを遂行することに力を注いだ人なのではないでしょうか。

 

 

 

義経の場合、奇襲が使えず、正面から、しかも苦手の海戦に臨むにあたっても、勝つべくして勝つためにはどうすればよいか?と考え、そして、シンプルだが間違いのない、「戦力で相手の数を上回った上で戦う」という方法を思いつき、そして実行しました。

 

壇ノ浦の戦いにおける義経の徹底した正攻法は、「勝負事は、勝つべくして勝とうとして臨まなければならない」ということを、改めて教えてくれているように思います。

 

 

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