ピカソの絵の何がすごいのか?~ピカソが伝えたかったことは何か?~
「何この絵?落書きにしか見えないんだけど・・・」
中学生の時に、美術の教科書に載っているその絵を見たとき、私はそう思いました。
「わざとこう書いているのだろうか?それとも、このようにしか、この画家は書けない人なのだろうか?」
それは、パブロ・ピカソの絵でした。
ピカソ。
この名前を聞いたことがない人はほとんどいないでしょう。そのくらい、ピカソは天才画家として有名だと思います。
多くの人は、ピカソが有名な画家として世界で認識されている、ということは知っていることでしょう。しかし、「ピカソの絵が大好き」とか、「ポスターなどを家に飾っている」という人は、そう多くはないのではないでしょうか。
私もそうでした。そして、数年前まで、積極的にピカソの絵を美術館に見に行こうと思ったことは一度もありませんでした。ピカソの絵よりも、フェルメールや、モネといった人たちの絵の方が、ずっと好きでした。というよりも、ピカソの絵を好きだとは、お世辞にも言う気になりませんでした。
「こんな絵のどこがいいのか?この絵を本心から評価している人なんて、本当にいるのだろうか?」
こんなことを思っていました。
というのも、決してピカソの絵が、私たちが見たままを、上手に、そしてきれいに書いているようには思えなかったからです。
しかし、数年前に、会社の先輩と仕事帰りにのみにいったときにその先輩が教えてくれた「ピカソがどうしてあのような絵を描いたのか」という話を聞いてから、ピカソの絵に対する私の認識ががらりと変わりました。
今日は、そのときの先輩の話をご紹介したいと思います。
「この前、美術館に行ったら、ピカソの絵が展示されていたんです。いつも思うんですが、ピカソの絵って、一体どこがいいんでしょうね?」
私はビールを飲みながら、先輩にこういいました。すると、先輩はじろっと私を見て、こういいました。
「お前、ピカソの絵のすごさがわからないのか?」
「え?・・・というと、わかるんですか?」
「当然だ。」
私は驚きました。これまで、ピカソの絵のすごさをわかるという人に出会ったことがなかったからです。まさか先輩がそれを知っているなんて・・・。
「あれは、本質を表現しようとしているんだ。」
「本質・・・ですか?」
私は先輩のいう意味が分かりませんでした。あのヘンテコな絵のどこに本質があるというのか?
先輩は、納得していなさそうな私の表情を見て、こう言いました。
「そもそも、「絵」って、なんだと思う?」
「「絵」は何かですか?・・・たぶん、見たものそのものをなるべく現実に近い形で残したもの、なんじゃないでしょうか?」
「おそらく、大昔に、初めて人類が絵を描き始めたときは、絵はそういう位置づけだったはずだ。」
先輩はそこでビールを飲みほし、追加で注文するために、テーブルの上にある店員呼び出しボタンを押してからこう言いました。
「大昔、人はきれいな景色を見たとき、こう思ったはずだ。「この景色を、いつでも見られるようにしておきたい」と。そしてそのために考え出されたのが、絵だったはずだ。絵にすることができれば、いつでも、24時間、自分の家でみたいときに、そのきれいな景色を見ることができる。」
先輩は、注文を取りに来た店員に、ハイボールを頼むと、続けてこう言いました。
「だから、絵は、当然、現実を忠実に再現したものであることが大事だったはずだ。あるいは、現実の景色よりも、より美しいものの方が喜ばれたかもしれない。」
「確かにそうですよね。正直、ピカソが描いたような絵を描く人は、子供以外にはいなかったでしょうね。」
「おそらく、「絵」とは、19世紀までずっとそんな風に認識されていたのだろう。あるものが発明されるまでは。」
「・・・ある物って、何ですか?」
「写真だ」
私はハッとしました。先輩の言わんとしていることが分かったからです。
「写真ができてから、おそらく、多くの人はこう思っただろう。「絵は、所詮、絵に過ぎない。真実の姿を現す力では、写真には全くかなわない」と。」
「確かに・・・。」
「そして、もしかしたら、「絵なんていらないんじゃないか?」なんてことを言う者まで現れたんじゃないだろうか。絵なんて、描くのに時間はかかるは、金はかかるは、しかも出来栄えは写真に全くかなわないんだからな。」
先輩は、店員が持ってきたハイボールをグイッと飲んで続けました。
「ピカソは、最初、写真のように、事物を忠実に描く画家だったんだ。」
「え?そうなんですか?」
「ピカソがあのような、多くの人から見たらヘンテコな絵、つまり、キュビズムと呼ばれている絵を描くようになる前は、ごくごく普通の絵を描いていたんだ。」
私は驚きました。ピカソは普通の絵も描けたのですね。それなら、何が彼に、あんなヘンテコな路線に突き進ませたのでしょうか?
「写真の登場が、ピカソを変えたんだよ。真実の姿をどれだけうまく表現できるか、という競争をしていたのでは、画家は写真には絶対に勝てない、ピカソはそう思ったんだ。写真にはできないものを描けなくては、絵も、画家も、存在意義を失う。そうピカソは思ったはずだ。そして、「絵にできて、写真にはできないことは何か?」をひたすら考えた。」
「それで、キュビズムにたどり着いたんですか?」
「そうだ」
確かに、写真には、キュビズムは描けない。でも、だからって、あのピカソの絵がすごいとも、本質を表しているようにも思えませんでした。すると先輩は、私のそんな疑問を感じとったのか、こう続けました。
「写真は、それそのものを忠実に再現することはできるが、逆に言えば、それしかできない。ピカソはそう考えた。それなら、人間である画家は、その対象の本質を描いてやれ!と。」
先輩は、またハイボールに口をつけ、そしてこう言いました。
「物事の本質って、なんだと思う?」
「本質・・・ですか?たぶん、必要不可欠な、欠かせないもの、というような意味だと思いますが・・・。」
「まあ、そんなもんだろう。じゃあ、人間の本質ってなんだと思う?」
そう聞かれて、私はすぐに答えられませんでした。「人間の本質」って、何だろう?
「例えば、皮膚の色が黒いか白いか、黄色いか、これは人間の本質と関係があるか?」
「・・・ないと思います。まあ、かつては、人種差別は世界中であったと思いますので、その時代には、白色人種からしてみたら、日本人なんて、人間でない、と思っていた人たちもいると思いますが」
「まあ、今でも世界では、人種差別なんて、実はあるんだろうと思うが、皮膚の色が、仮に青だろうが、緑だろうが、人間の本質には無関係なはずだ。じゃあ、腕が、あり得ない形でひん曲がっていたらどうだ?その人は人でないということになるか?」
「いえ、腕が曲がっていようが、仮になかろうが、人間であるかないかの判断には関係ないでしょう。」
「じゃあ、足が曲がっていても、極端に細くても、それらの色が白でも、黒でも、黄色でも、それ以外の色でもそうだよな?」
「はい。」と答えたものの、私は先輩が何を言おうとしているのか全く分かりませんでした。
「ピカソは、例えば人間の本質については、肌の色でも、腕や足の形でも色でもない、とあの絵で示しているんだ。」
「は?」
「ピカソの絵の中では、人間に限らず、あらゆる対象が、俺たちが普通に見たものとはかけ離れた形や色をしている。しかし、それでも、ピカソが描こうとしたものが何なのかは、だいたいわかるだろう?「あれは人だな、あれはテーブルだな、あれは窓だな・・・」という感じで。」
「まあ、何が描かれているかくらいはわかりますね。」
「それは、つまり、その対象の本質を外していないからだろう。本質を外せば、もはや対象が何だったのかはわからなくなるはずだ。ピカソは、ぎりぎり、それが何を描いているのか判断が付くレベルにまで崩して描いているんだ。それはつまり、「これが、この対象の本質だ!」と示そうとしているんだ。」
私は、「なるほど~」と思ってしまいました。確かに、ピカソの絵はヘンテコな絵であることは間違いありませんが、それでも、何が描かれているのかはわかります。つまりそれは、ピカソが描いているものは、その対象の必要不可欠な部分は描いているから、ということは、言えそうな気がしました。
ただ、それの何がすごいのか、いまひとつ、私にはピンときませんでした。すると先輩は、そんな私の気持ちも察したのか、次のように続けました。
「こんなこと、写真にできると思うか?」
「いえ、できないと思います。」
「ピカソは、写真が発明されたとき、おそらく、その後の世界をこう予測したんだろう。「今後、どんどん世界は科学技術を使って発展し、機械はこれまで人間の仕事だったことを次々と代わりにこなしてくれるようになるだろう。そしてその結果、多くの人間は、職を失うことになる」と。
そして、今はせいぜい画家がいらないんじゃないか?ということくらいしか言われていないが、それは画家だけではなく、大量の労働者にも当てはまることになるだろう。
そんなとき、必要になるのは、「人間にしかできないこと、機械にはできないことをやる人間」だと。
そしてその「人間にしかできないこと」とは何か?と考えたとき、ピカソは、「物事の本質をつかむことだ」と考えたんだ。そしてそのことをピカソは自分の絵を使って世間に訴えているんだよ。「本質をつかめ!機械にできないことをやれるようになれ!」と、あのヘンテコな絵で主張しているんだ。」
私は、ピカソの絵に、そんな意味が込められていたなんて、全く思いもしませんでした。
「本質が大事、とか、機械にできないことをやれ、なんてことを、単に言葉でいうことなら簡単だ。しかし、それを言葉で言ったところで、さほど人の心を打ったりはしないだろう。しかし、あのピカソの絵を見ると、それを強烈に感じないか?「本質っていうのは、こういうもんだ!」「機械にできないことっていうのは、つまりはこういうことなんだ!」と心に刺さってこないか?これを感じ取ることができた人たちが、「ピカソってすげえ!」と思って、今までピカソは天才画家として世界中で尊敬され続けているんだ。」
私はこれを聞き、大いに納得しました。そして、こんな重要なことを、どうして学校の美術の時間に先生は教えてくれなかったんだろう?と思いました。先輩は、一体誰からこの話を聞いたのだろう?そう思い、先輩に聞いてみました。すると先輩は、笑いながらこう言いました。
「いやいや、実は、そんなこと、俺も誰かから聞いたわけじゃないんだよ。ただ、ピカソが天才画家として世界で認識されていることは確かなことだろう?だから、きっとあのヘンテコな絵を強烈に支持する人が昔からいたことは確かなんだろう。その理由って何なんだろう?って自分で考えたんだよ。そして、写真ができた時代を調べると、ちょうどピカソの時代と重なっていたから、まあ、こんな理由であのキュビズムは生まれたのかな?って思っただけなんだよ。」
「え!?そうなんですか?今の全部、先輩の単なる予想ですか?私、今、完全に先輩のいうこと信じちゃいましたよ!」
「そう、全部俺の予想だよ。別に学校の美術の先生がそう教えてくれたわけでもなんでもない。本当は違うかもしれない。本当のところは、ピカソに聞くしかないよ。それか、美術の専門書とかを見ればどこかには書いてあるのかもな。ただ、俺はピカソの絵についてこう考えるようになってから、ピカソの絵に対する認識ががらりと変わったんだ。今では、ピカソの絵のコピーを自宅の部屋に飾っているくらいだ。そのピカソの絵を見るたびに、いつもこう思うんだ。「今自分がやっている仕事の本質って何だろう?」「自分は今、機械にはできない仕事をやれているだろうか?」ってね。そう思うことで、常に自分は本質を突いて、人間にしかできないやり方で仕事をしていこう!という気持ちになるんだよ。」
この先輩の話を聞いてから、私もピカソの絵のコピーを、小さいですが、一枚買い、自宅の部屋に飾りました。その絵は、人間なのに、皮膚が白でも、黒でも、黄色でもない部分があり、テーブルや窓は、決してきれいな形をしておらず、一見幼稚園の幼児が描いたような絵です。しかし、この絵を見るたびに、ふと、先輩が言ったようなことを思います。
「自分は、本質を突こうとしているか?」「機械にはできないことをできているか?」
ピカソの絵を見て、みなさんは何を思いますか?