人間関係において最も気を付けるべきこと~怒鳴りつけて、あとで後悔しないか?~
その男については、出身地も、生まれた年も、はっきりとしたことはわかっていません。
ただ、若い頃はとても不遇だったといわれています。
その優秀さが認められず、長い間芽が出ませんでした。
何度か仕えるべき相手を変えた後、ようやく、能力主義を重視する者に出会うことができたことで、その男の人生は大きく展開しました。
自分よりも早くにその主君に仕えていた者たちを追い抜いていき、周囲から嫉妬されるほどに出世していきました。
主君からは、その働きぶりを時に激賞され、その男も主君に多大な感謝の念をもって仕えていました。
自分を見出してくれ、多くの機会を与えてくれ、さらには正当な評価も下してくれた。
その男と主君の間柄は、正に理想の上司と部下の関係にあったといえるかもしれません。
しかし、その男は、突如裏切り、その主君を暗殺しました。
理由はわかっていませんが、昔から言われている1つは、怨恨によるのではないか、というものです。
具体的には、次のようなものです。
その主君にとって最大の強敵をやっとのことで滅ぼし、それを祝う会でのこと。
その男は、こう言いました。
「我々の長年の苦労が報われた」
これをきいた主君は激怒しました。
「苦労したのはお前ではない!この俺だ!」
こう叫びながら、主君はその男の頭を掴み、欄干に何度も打ち付けたそうです。
その時、周りに何人いたのかはわかりませんが、その男は痛みとともに、強烈な恥ずかしさを感じたことでしょう。
これが主君暗殺の原因ではないかといわれています。
この男は、明智光秀、主君とは、織田信長です。
本能寺の変の原因は諸説ありますが、未だに何が本当の原因なのかがわかっていないといいます。
本当の原因とは、光秀がどう考えていたのか?という内心の問題なので、なかなか特定するのは難しいでしょう。
ただ、ここに動かしがたい1つの事実があります。
それは、本能寺の変から400年以上経過した今でも、上記の怨恨説が生き残っているということです。
説というのは、誰かが言い出せば必ず残るというものではありません。
多くの人の支持を得なければ、時の経過とともに自然と淘汰されていきます。
つまり、「それはないだろう」ということで、無視され、最後はそのような説が唱えられていたことすら忘れ去られていきます。
逆に、長い年月を経ても言い伝えられ続ける説というのは、それが真実か否かはともかく、多くの人が、「さもありなん」と感じていることの証拠です。
つまり、人は、「もしも自分が光秀の立場なら、信長に言いようのない怒りを感じたかもしれない」と思っているのです。
この点、日本人なら誰でも知っているあの重大事件も、思えばこれに似ているように思えます。
それは、忠臣蔵です。
赤穂藩主浅野内匠頭が江戸城松の廊下で吉良上野介にいきなり切りかかったのは、吉良から様々な嫌がらせを受け、大きな屈辱を感じ、なんとか我慢しようと思い続けていたが、遂にあの日、堪忍袋の緒が切れてしまったからだ、といわれています。
彼が吉良に襲い掛かるときに発したのは、「この間の遺恨、覚えたるか!」だったそうです。
辱めを受ける、屈辱を感じる、こういったことで、相手の命を奪いたいなどと思うものなのだろうか?と疑問に思う人もいるかもしれません。
しかし、会社生活を振り返ってみても、これはある程度理解できるのではないでしょうか。
大抵の過去の記憶は、笑い話にできます。
苦しかった経験も、含めて、時が経過すれば「あんなこともあったな」とか、それどころか、「あの苦労がなければ、今の自分はなかった」などと肯定的に捉えることができるようになります。
しかし、そんな中で、思い出すと胸の奥が疼くような、とても笑い話にはできない記憶はないでしょうか。
それは何かと探ってみると、屈辱を感じさせられた出来事だったりするのではないでしょうか。
できれば忘れ去りたい、そして、誰にも触れられたくない、そんな記憶・・・。
この点、ニーチェは次のように述べています。
「人をはずかしめることは、明白な悪の一つだ。悪人は人をはずかしめる」
幕末より少し前の時期の大阪に、「適塾」という塾がありました。
これは、蘭学、特にその中でも医学の塾で、大阪大学の前身と位置付けることができる塾です。
この塾は、蘭方医であった緒方洪庵という人がつくった私塾で、幕末の少し前の時期に、大いに栄えました。
緒方洪庵は、その性格は非常に温厚でやさしく、門弟の前で顔色を変えたり、怒ったりしたことがなく、門弟に非があればじゅんじゅんとさとす人だったそうです。
この塾で学んだ福沢諭吉は、洪庵のことを、「まことにたぐいまれなる高徳の君子」と言っています。
ある日、ある塾生が、適塾の「塾頭」に選ばれました。塾頭に選ばれるのは、その塾でもっとも優秀な塾生であるということを意味します。
そのとき、同じく塾生の山田という者が、塾頭に選ばれた者に対して、こう言いました。
「これで300石ですね!」
適塾の塾頭なら、大きな藩がそのくらいで召し抱えようとしてくるだろう、という意味でした。
これを緒方洪庵は聞いていました。
洪庵は、日頃から、「医は、富や名声を求めるための道具ではない」と言っている人でした。
そのため、この「300石ですね」という言葉を聞かれた山田という塾生は、「叱られてしまうな」と思いました。
洪庵は、山田を自室に呼び出しました。
「やはり叱られるか・・・」
山田がそう思った時、洪庵は、一冊の本を山田に渡しました。
その本は、フーフェランドという人の書いた、「医戒」という本でした。
「医戒」は、医者としてのあるべき心構えが書かれているもので、洪庵はちょうどそのとき、その本をオランダ語から日本語に翻訳しようとしていたときだったのです。
医戒は全部で12章ありましたが、その第1章は、「医の世に生活するは人のためのみ。おのれがためにあらずということをその業の本旨とす」というものでした。
洪庵は、その第1章を、山田に清書させました。山田は、自分の非を、清書しながらしみじみと感じたそうです。
今、あなたの目の前の人が、大きな過ちを犯しました。
しかし、だからといって、感情に任せて怒鳴りつけたり、大勢の前でさらし者にしたりして、本当によいのかな?