大村益次郎① 靖国神社はなぜ作られたのか?
2016/08/29

終戦記念日 |
もうすぐ8月15日です。
この日は、日本人なら誰もが知っている終戦記念日ですね。
終戦記念日というと、私はすぐに、靖国神社を思い出します。
首相等がこの靖国神社に行くか否かをメディアが取り上げることも多いですよね。
私も実際に靖国神社に行ったことがあります。
普段はさほど混んでいませんが、8月15日に行くと、大勢の人が参拝にきます。
そのため、九段下駅やその周りはかなり混在します。
銅像 |
靖国神社は、まず鳥居があり、そこをくぐって神社の方に進むと、やたらと高い塔のようなものが見えます。
その塔のようなものの上には、銅像が立っています。
この銅像は、誰のものかわかりますでしょうか?
これは、大村益次郎という人の銅像です。
もとの名前は、村田蔵六といいます。
靖国神社にある銅像ということは、きっと、靖国神社に何か関係があるのでしょうね。
しかし、日本史の教科書を見ても、大村益次郎という名前も、村田蔵六という名前も、おそらく見つけることができないのではないでしょうか。
一体、大村益次郎とは、何をした人なのでしょうか?
靖国神社が作られた理由 |
ところで、みなさんは、靖国神社は、何のための作られたものかご存知でしょうか?
私は24歳くらいまで、太平洋戦争の戦死者を祀るためのものだと思っていました。
よって、建てられたのも、終戦後、つまり昭和20年以後なのかと勝手に思っていました。
しかし、実は靖国神社の前身である東京招魂社が建てられたのは、1869年、つまり、明治2年なのです。
なんでその時期に?
私はこれを知った当時、そう思いました。
調べてみると、その理由が分かりました。
実は、東京招魂社は、幕末に、明治維新のために命を落とした人たちを祀るために作られたものだったのです。
ご存知の方も多いと思いますが、1853年に米国のペリーが浦賀に来航して日本に開国を迫ってから討幕までの約15年間、幕末は、激動の時代でした。
攘夷か否か、倒幕か否か。
これらを論点にして、日本が大きく二つに割れ、その間、多くの人が亡くなりました。その多くは、「志士」という若者でした。
明治になったとき、「幕末で命を落とした、この日本のために戦った者たちを祀ろう」という動きが生じました。
この「日本のために戦って命を落とした人たちを祀る」という考えがその後も引き継がれ、西南戦争、日清戦争、日露戦争、そして日中戦争、太平洋戦争で日本のために戦って命を落とした人達を祀ることになったようです。
この明治2年の東京招魂社の建立のために尽力した一人が、靖国神社にある銅像の人物、大村益次郎です。
討幕軍の総司令官 大村益次郎 |
「ということは、この大村益次郎は、逆に言えばそれだけの人?」
こんな風に思った方もいらっしゃるでしょう。
しかし、この大村益次郎は、他にも大きな仕事をしています。
この、靖国神社の前進である東京招魂社の建立に尽力した大村益次郎に興味を持った私は、webで色々と検索したところ、実は、幕末に幕府を倒す原動力となった今の山口県、かつては長州藩と呼ばれていた藩で、討幕軍の総司令官として活躍した人だったということが分かりました。
さらに私が驚いたのは、大村益次郎は、武士の出身ではなく、長州藩の鋳銭村の村医者だったことです。
「身分制度が厳しい江戸幕府の時代に、そして、軍事と全く関係なさそうな村医者がどうして討幕軍の最高司令官になれたのか?」
「どうして大村も討幕軍の最高司令官になろうと思ったのか(普通、武士でないなら、総司令官になろうとは思わないのでは?)」
さらには、「どうして村医者出身者が、討幕を成し遂げることができたのか?」
こんな疑問が私の中に出てきました。
そこで、司馬遼太郎氏が書いた大村益次郎を主人公としている小説、「花神」を読み、さらに、その他の関連書籍を調べることで、自分なりにその疑問を解決しようと思いました。
その過程でわかったことや、考えたことを、これから2回に分けて書いてみたいと思います。