悪を知らねば勝利は覚束ない(勝利の確度を高める方法)

幕末のぎりぎりの段階で、薩摩藩と長州藩は、討幕のために様々な陰謀と謀略を繰り出しました。そのためでしょうか。明治維新については、暗いイメージもあります。

そして時に激しい非難の的となり、太平洋戦争に至った原因や日本がこの戦争で負けた原因をこの薩長による明治維新にあるという考え方もあります。

太平洋戦争との絡みで薩長にどこまで原因があったと考えるべきなのかは私にはわかりません。ただ、私が1つ気になるのは、正々堂々戦った幕府側と、陰謀を巡らした薩長という図式を設定し、幕府は「正義」で薩長は「悪」と捉えることの意味です。

 

15代将軍徳川慶喜による大政奉還がなされた後の勢力を簡単に示すと、それは次のようになります。一方は、土佐を中心とするグループ。もう一方は、薩摩と長州を中心とするグループ。この2つのグループの最大の違いは、徳川慶喜を新政府の構成メンバーに入れるか否か、でした。土佐を中心とするグループは、慶喜を入れることを肯定し、薩長グループは断固反対でした。薩長グループは、慶喜を排除するためにあらゆる手を使います。具体的には、次のようなものです。

①まず、薩摩と長州の下級武士の一部の者たちは、天皇が発していないにも関わらず、天皇の命令である「勅命」という形で討幕が命じられたとし、その勅命を薩摩と長州に持ち帰り、討幕に反対する者たちの反論を抑え込みます。その上で、藩全体として討幕へと向かうように意思統一を図ります。

②次に、まだ幼かった天皇およびその側近の公家たちを抱き込み、朝廷から会津や桑名、さらに幕府を支持する公家たちを締め出します。これにより、薩長の思いの通りに政治を行うことができる体制を整えました。王政復古のクーデターです。

③その後、小御所にて開かれた会議にて、薩長は慶喜に対して、征夷大将軍の官を辞し、徳川家が持つ所領の大部分を朝廷に返納することを求めます。

③に対し、土佐の山内容堂は、「自ら大政を奉還した慶喜だけにそこまで求めるのはおかしい。そのようなことを求めるなら、まずは薩摩と長州が自らそれをせよ。」と迫ります。このため会議は紛糾しますが、このとき薩摩の西郷隆盛は、会議に参加して困り切っていた大久保利通にこうアドバイスします。「短刀一本あれば片付くだろう」つまり、容堂があくまで慶喜を擁護するなら、殺してしまえ、というのです。

そもそも大政奉還は、これからは重要事項を話し合いで決めていこうという建前だったのに、ここでは、「反対する者は殺してしまえばよい」という姿勢だったのです。このことを知った容堂は、殺されるのを恐れたのか、それ以上は慶喜を擁護しませんでした。

 

このようにみると、確かに、薩長は、権謀術数の数々を繰り出し、遂に政権を奪うに至ったといえます。

一方、この間、幕府側、そして将軍であった徳川慶喜は何をしていたかといえば、薩長のような陰謀を巡らすこともなく、常に後手後手でした。

なぜ、幕府は積極的に対抗しなかったのでしょうか。

それは、「勝ちたい」という気持ちの強さに差があった、とは考えられないでしょうか。

 

会社には、色々な人がいます。自分の企画を通すことに並々ならぬ情熱を注ぎこむ人がいます。

このような人たちは、その企画を実行に移すかどうかを決める会議に臨む際には、会議出席メンバーへの根回しは怠らず、事前説明を綿密に行います。会議が開催される時点で、もう結論は出ています。反対される気配がある場合にも、黙って結果が出るのを見守るという態度はとりません。このような段取りを行えるのは、理由はともかく、「ただただ、自分の企画を通すことに対する強い情熱があるから」でしょう。

片や、「自分はそのようなことはしたくない」という人もいるかもしれません。会議で公明正大に、その場で参加者に議論してもらった上で決めてもらえれば「結論はどちらでもよい」、そう考えている人もいるでしょう。行き過ぎた根回しや説得活動により、会社としての意思決定に不当な影響を与えたくない、という気持ちからそういう静かな態度をとらせるのかもしれません。

しかし、その結果、自分の企画は通らず、または、あきらかに会社にとって損失を被らせるリスクの高い案件の企画が、「何が何でも通す!」と考えている人たちによって通ってしまうかもしれません。

そういう人たちに勝つためには、果たして、聖人君子でいてよいのか。自分は根回しなどしない、という態度でよいのか。「そこまでやるかね。かっこ悪い」と、彼らの活動を横目で見ているだけでよいのか。そんな態度で、会社を守れるのか。

 

1868年のはじめの王政復古のクーデター時は、新政府の中心となる役職には、公卿や有力諸藩の藩主および藩士らが選ばれました。しかしそれから2年もしないうちに、薩摩藩と長州藩の下級武士だった者たちが徐々にその役職に進出してきます。薩長の台頭です。

そして、徳川時代の象徴ともいえる身分制度を廃止し、四民平等を掲げるや、薩長の下級武士出身者らが明治政府の中核を占めるようになりました。その段階では、公家出身者の多くは中核的な地位から退き、残ったのは三条実美と岩倉具視の二人くらいです。そして、藩主だった者は一人も残っていません。

なお、わずかに残った椅子は、土佐と佐賀の下級武士出身者らに与えられました。残酷なようにも思えますが、能力主義を採用したといわれればそれまででしょう。

こうして、ゆっくりと、しかし着実に、薩長の下級武士出身者らは明治政府の要職をほぼ独占していきました。1871年、ここに、薩長藩閥政治の基本形がほぼ完成し、これはその後、40年以上に渡って続きます。

 

この世の中に、仮に「悪」というものがあるとして、その「悪」に本当に勝ちたいと思ったなら、自分がどこまでやるかはともかく、その「悪」がどこまでやってくる可能性があるのか、といったことくらいは認識しておかないと、戦いにすらならないこともあるでしょう。

 

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