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屋島の戦いにおける源義経と源範頼の差

      2017/02/14

 

屋島の戦い

 

一ノ谷の戦いに敗れた平氏は、安徳天皇と三種の神器を伴い、船で現在の香川県高松市の東北にある屋島に逃げました。

 

一ノ谷で敗れたとはいえ、平氏は依然として多くの軍勢を有しており、特に水軍は瀬戸内海を制圧していました。瀬戸内海沿岸の武士達の多くは、まだ平氏の味方でした。

 

一方、源氏は平氏に対抗できるだけの水軍を持っていませんでした。そのため、もしも船で平氏の本拠地である屋島に行こうとした場合、平氏の有する多くの水軍によって滅ぼされる恐れがありました。

 

屋島に行きたくても行けない、そんな状況がこのときの源氏にはあったようです。

 

そこで、義経の兄である源範頼の率いる源氏軍は、現在の岡山県、広島県、山口県の瀬戸内海側に位置する山陽道を駆け巡り、瀬戸内海沿岸の平氏軍を破ることで、平氏の勢力を削ごうとしました。

 

しかしこのとき、源氏軍の兵糧、つまり、必要な食料の補給がうまくいきわたらないとう状況に陥ります。

 

都のある京都ですら、源氏軍の腹を満たすだけの食料を用意するのは一苦労だったのに、ましてや山陽道ではなおさらのことだったのでしょう。

 

源氏軍は食料不足によって全滅の恐れすら出てきてしまい、範頼は鎌倉の源頼朝に手紙で救援を訴えました。

 

ところで、この源範頼が率いる源氏軍の中に義経はいませんでした。

 

理由ははっきりとはわかっていませんが、頼朝に無断で朝廷から官位を得たことに腹を立てた頼朝が、義経を今回の戦いから排除したという説や、京都周辺の状況が不安定だったので、義経には京都にいてもらいたい、と朝廷側がお願いしたからだ、という説もあります。

 

いずれにしても、この源範頼率いる源氏軍が全滅する恐れが高まってきたために、義経が平家追討のために京都を出発しました。

 

このとき、義経は、平氏とどのように戦うべきかを考えました。

 

平氏の水軍に匹敵するような水軍を源氏はもっていません。

 

そのため、源範頼は直接屋島を攻めずに、山陽道を進んで瀬戸内海沿岸の平家を攻めようとしていました。

 

しかし義経はこう考えました。

 

「平氏の本営は屋島にある。そこに安徳天皇がいる。三種の神器もある。我ら源氏の主たる目的は、それらを奪うことである。そうだとすれば、山陽道ではなく、屋島を直接攻めるべきだ。」

 

しかし、屋島に行くには、船で海を渡らなければいけません。

 

そして海を渡れば、平氏に見つかり、海で平氏の水軍と戦わなければならなくなります。

 

そうなると、おそらく源氏は負けます。義経もそのことははっきりと理解していました。

 

そのため、屋島に普通に船で向かうという方法はとることができない、と思いました。屋島に行くには海を渡らなければならないが、平氏に見つからずに行く必要がある。

 

つまり、このときも、義経は一ノ谷の戦いのときと同じように、敵である平氏に気づかれずに、敵の本陣まで近づきたい、と思っていました。

 

そのための方法は何かないだろうか?

 

暴風雨来る

 

そんなとき、暴風雨が瀬戸内海を襲いました。その勢いは、とても船など出せるようなものではない、という天候になりました。

 

しかしこれを見て、義経は決断しました。

 

「今こそ屋島に向けて船を出すべきときだ」

 

義経はわずか150騎で、船で四国に向かおうとしました。もちろん、船を操る船頭達は、「こんな嵐の中に船を出したら沈没する」と言いました。

 

しかし義経はそれを押し切り、海に出ました。そして暴風雨の中、追い風を利用して、通常は3日かかる距離をたったの6時間ほどで渡ってしまいました。

 

その後、義経は、船が到着した阿波から騎馬で屋島に向かい、平氏の背後から奇襲攻撃をしかけました。

 

突如背後から現れた源氏に驚いた平氏は、源氏の正確な数を把握する暇もなく、あっという間に船に乗って海上に逃げてしまいました。つまり、本営であった屋島をあっさりと義経軍に明け渡してしまったのです。

 

その後、平氏は、海上の船から陸の源氏軍の全軍を見たとき、その兵の少なさに驚きます。

 

わずか150騎程度の兵なら、逃げずに戦えば勝てたはず、と思いました。しかしそれは、後の祭りでした。

 

これが、屋島の戦いのクライマックスです。

 

 

存念あり

 

このときの義経の戦い方から私が気づかされたことがいくつかあります。

 

その一つ目は、この屋島の戦いにおいても、一ノ谷の戦いと同じように、「結局、暴風雨の中でも、船は転覆せずに渡ることができたのだな」ということです。

 

暴風雨の中での渡海は、約150騎の兵で行われました。

 

そして、船が転覆することなく阿波に到着できたのは、義経の乗っていた船だけではなく、出発した船全てのようです。つまり、義経だけが偶然にも暴風雨の中渡りきれた、というものではなく、そもそも、物理的には転覆せずに渡れるだけの天候だった、ということなのでしょう。

 

ただ、このような悪天候の日に、危険を冒してわざわざ四国に船を出した者がそれまではいなかったために、この時代の人々は、船頭を含めて、「到底、無事にたどり着けるはずがない」と思ったということなのでしょう。

 

私はここでも、やはり義経の勇気というものが、勝敗を分けた一因なのだろうなと感じます。そして、このとき見せた義経の勇気は、一ノ谷の場合のそれよりも、より大きいもののように感じます。

 

というのも、一ノ谷の戦いのときは、一応、「鹿なら無事に通れる」という前例がかろうじてありました。

 

「鹿が通れるなら、馬も通れるはず」という仮説を一応持つことができました。

 

しかし、この屋島の戦いにおける暴風雨の中での渡海には、「無事に渡海できた」という前例がなかったように思います。

 

つまり、「本当に船が途中で転覆する可能性が高い」と感じつつの出航だったのではないでしょうか。

 

となると、このときの義経の勇気は、一体どこから出てきたのだろう?と不思議に思えます。

 

私は、この屋島の戦いのときの義経は、もはや勇気を通り越して、死ぬ気でこの戦いに臨んでいたのではないかと感じます。

 

実際、義経は、屋島に向かうことを後白河法皇からの使いの者がやめさせに来た際に、次のような言葉を発したとされています。

 

「存念あり。この一陣において命を捨つる覚悟に候。」

 

義経のこのとき発した「存念」とは何か、そして、なぜ「命を捨てる覚悟」を持てたのか、それはわかりません。

 

ただ、この勇気ある命を懸けた行動によって得られた成果は非常に大きなものでした。

 

平氏のリーダーである平宗盛は海上に逃げました。源氏は、安徳天皇も三種の神器も取り戻すことはかないませんでしたが、平氏の本営であった屋島を占領することに成功しました。その結果、それまで平氏に味方していた瀬戸内海沿岸の武士達が、「もはや勢いは源氏に傾いたか」と思い、次々と源氏につくようになったのです。そしてこれが、壇ノ浦の戦いにおける平氏滅亡へと繋がっていきます。

 

本拠殲滅主義

 

 

私がこの屋島の戦いで注目したい2点目は、義経が直接屋島に攻め込もうと考えた点です。

 

もともとは、義経の兄である範頼は直接屋島を攻めようとはせずに、山陽道を進んで平氏の勢力を削ごうと考えていました。

 

それは、平氏の水軍に匹敵する水軍を持ち合わせていなかったためでした。つまり、源氏は海戦が苦手でした。

 

ここに、義経とその兄である範頼の戦いに対する考え方の違いが明確に出ているように感じました。

 

範頼は、「自分たちに今できること」から戦略を考えました。

 

「水軍を持たない」、「海戦は苦手」、よって、「陸を攻める」、そのためには、「山陽道を進む」。

 

その結果、兵糧不足に陥り、全滅寸前の恐れが生じました。

 

一方、義経はどうだったでしょうか。

 

彼はまず、「得るべき結果」から考えたといえるのではないでしょうか。

 

つまり、ゴールは、「平氏本営の覆滅」である、その平氏の本営は屋島にある、とすれば、攻めるべきは屋島以外にないだろう、そのためには、海を渡る必要がある、しかし海戦が苦手な源氏は、平氏に気づかれないように海を渡る必要がある、そのためにできることは・・・。

 

あくまで自分にできることから思考を出発させたのが範頼で、得るべき成果からそのための手段を検討したのが義経だった、と言えるのではないでしょうか。

 

 

できることからのアプローチか?ゴールからのアプローチか? 

私たちが何かをしようとするときは、当然、「得たい成果」があるでしょう。

 

会社であれば、「利益を出すこと」だと思います。

 

そうだとすれば、市場が何を求めているのかを知る必要があるでしょう。

 

そして、その求めているものを満足する方法には何があるかを考え、その次はその方法をいかにして自分たちは実現するか?を考えていくのだろうと思います。

 

これが逆になるとどうなるでしょうか。

 

今、自分たちが持っている強みはこれだ、技術はこれだ。

 

とにかくこの強み、技術を生かした製品を市場に出すべきだ。

 

よって、この強み、技術を生かすにはどうしたらよいか考えよう。

 

このような考えに陥ると、市場が求めるものではないものが出来上がったりしてしまうことがあるのではないでしょうか。

 

そしてこれを続けていくと、いつの間にか資金が尽きて、会社が潰れる、なんてことにもなるかもしれません。

 

「得たいものは何か?」から考える場合と「自分にできることは何か?」から考えた場合。

 

どちらを出発点にするかで結果が大きく異なってくる。

 

この屋島の戦いにあたっての義経の戦略立案から、こんなことを学べたように思います。

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