大村益次郎③ なぜ、大村益次郎は現代ではあまり知られていないのか?

      2016/08/29

大村益次郎について考えたこと 第3回です。

 

吉田松陰

 

吉田松陰。

 

この名前はあまりにも有名です。

 

山口県の萩には、松陰神社なるものもあります。

 

松陰が開いた松下村塾もほぼ原形をとどめて存在します。見学もできます。

(上の写真は、山口県萩市にある松下村塾です)

 

大村益次郎と吉田松陰は、年齢の近い同世代で、かつ長州藩という今の山口県に当たる藩の出身者です。

 

さらに、吉田松陰は長州藩が幕府と戦争をしていく時代には既に命を落としています。

 

一方、大村益次郎は、もともとは鋳銭司村の村医者でした。

 

医者であった彼は、幕末の緊張が極度に高まった時期に、薩摩藩と長州藩からなる討幕軍の総司令官になりました。

 

彼は若いときに、大阪の緒方洪庵という有名な蘭方医が開いていた適塾という私塾(のちの大阪大学医学部の前身)で蘭学を学びました。

 

そこでオランダ語を学び、そのオランダ語の知識やその後学んだ英語を基に、西洋の軍事に関する書物を読み込み、それによって欧米の戦争の考え方、戦術等を学んだようです。

 

もともと合理的な頭脳を持っていた彼は、外国の軍事の本を見事に理解し、その知識に基づいて、幕府軍に戦いを挑みました。

 

結果は、次々と幕府軍を敗走せしめ、当時の日本中の諸藩に、「幕府にもはや力はないのか」と思わせることに成功し、それがきっかけで戊辰戦争にて幕府が倒され、明治の世になります。

 

また、彼は、靖国神社建立に尽力した人でもあります。

 

そのため、靖国神社には、彼の大きな銅像が堂々と立っております。

 

靖国神社は、決して太平洋戦争終了後に建てられた神社ではありません。

 

靖国神社の前身である東京招魂社は、そもそも、明治維新で命を散らした人々をまつるための神社として建てられました。

 

つまり、「国のためを思って活躍した人々」をまつるためのものなのです。

 

明治維新のために軍師として各地を転戦した大村益次郎は、人一倍、幕末の動乱で命を落とした人々のことを想っていたのでしょう。

 

なぜ大村益次郎はあまり知られていないのか?

 

こう書いてみると、大村益次郎はもっと知られていてもよい人なのではないかと思えてきます。

 

坂本竜馬や新撰組と同様に扱われてもよいのではないでしょうか。

 

しかし、現実には、歴史の教科書にほとんど触れられていません。

 

幕末のドラマに出てくることもほとんどありません。

 

一方、大村益次郎と同郷の吉田松陰はいかがでしょうか。

 

高杉晋作、久坂玄瑞、伊藤博文、山縣有朋・・・、と早々たる志士を松下村塾で育て上げた人物として大変有名です。教科書にも当然そのことは書かれております。

(上の写真は、高杉晋作です)

(上の写真は、伊藤博文です)

 

また、私は大村益次郎の故郷である鋳銭司村を訪れたことがあるのですが、そこにある郷土資料館は非常に閑散としていて、私が観覧した約2時間のうち、私以外の観覧者は、なんとゼロでした(普段どのくらい人が来ているのかわかりません・・・)。

 

その郷土資料館に行こうとして、最寄駅からタクシーに乗り、行き先を告げたところ、そのタクシーの運転手の方は、「大村益次郎って誰ですか?」と私に言いました。

 

「もはや地元でも知られていないほどになってしまっているのか・・・」と思いました。

 

一方、吉田松陰の場合、松下村塾はそのままの形で現存しており、毎年観光客が大勢来ます。修学旅行生も来ます。

(上の写真は、吉田松陰です)

 

松陰それ自体は、井伊直助による安政の大獄によって命を落とし、長州藩による倒幕のための戦争には全く加わっておりません。また、彼自身が特別に幕府勢力を弱めるような成果を残したわけではありません。

 

それにも関わらず、二人の死後の名声のこの巨大な差はどこからくるのか、いつしか私はそんなことを考えるようになっていました。

 

吉田松陰と大村益次郎の違い

 

司馬遼太郎氏の「花神」は、大村益次郎を主人公に、一方「世に棲む日々」は、前半は吉田松陰を、後半は高杉晋作を主人公として書かれた小説です。

 

これらの小説やその他の幕末を扱った書籍を読んだとき、私は最初、大村益次郎と吉田松陰の差は、「後進を育てたか否か」にあるように思いました。

 

前述の通り、吉田松陰は数多くの志士を育て、明治維新の原動力を生み出したとされています。

 

彼がいなかったら、高杉晋作や伊藤博文もあそこまで活躍しなかっただろう、とも言われています。さらに、吉田松陰がいなければ、明治維新はならなかった、というように扱われています。

 

一方、大村益次郎は、討幕軍の総司令官として、松陰よりもはるかに倒幕に現実的な影響を及ぼしました。

 

吉田松陰がその思想でその後進に影響を与えた結果、間接的に討幕に影響した一方で、大村はまさに彼自身が討幕に貢献しました。

 

その意味で、松陰は死してなお、世の中に影響を残し、一方大村益次郎は、彼一代の活躍に過ぎなかった(と認識されている)、という差があるのかもしれません。

 

しかし、大村益次郎は、討幕軍の総司令官として倒幕を成功させると、明治の世では大規模な軍制改革に乗り出します。日本のその後の陸軍の基礎を作ったと言っても過言ではありません。そしてその基礎があったからこそ、後の西南戦争での西郷軍を抑え、さらにその先の諸外国との戦争、つまり日清戦争および日露戦争における日本の勝利があったのだと思います。

 

そして、大村は大村で、自分の後進を育ててもいるのです。

 

しかし、その後日本は太平洋戦争でアメリカに敗れました。

 

そして、武力を放棄し、戦争をしない国になりました。

 

そうなると、過去に大規模な軍制改革を実行した大村益次郎の功績というものは目立ちにくくなります。

 

つまり、「日本は明治に入って大規模な軍制改革をしてよかった。それを断行したのは大村益次郎である。その功績は大きい。」というように大々的に大村の功績を評価するのが難しかった時代があったのかもしれません。

 

大村益次郎が吉田松陰ほど現代で歴史上の英雄として取り上げられることがない理由は、上記のようなところにあるように私は思います。

 

 

 

靖国神社に行かれる機会があったら、ぜひ、彼の銅像を見上げてみてください。

 

彼の視線は、幕末の江戸における最大の幕府勢力であり、大いに官軍を悩ませた彰義隊との戦いの場所であった上野寛永寺の方角を今も凛々しく見据えています。

 

 - 歴史上の人物・出来事から学んだこと