大村益次郎② なぜ、村医者が討幕軍の総司令官になったのか?

      2017/03/15

大村益次郎について考えたこと 第2回です。

疑問

 

長州藩は、どのようにして、大村益次郎の軍事の才能に気が付いたのでしょうか。

 

大村は武士ではありませんでした。もとは長州藩内の鋳銭司村の医者でした。

 

軍を指揮したことはないのはもちろん、自分の意志で刀を振り下ろしたことすらあったのでしょうか。

 

その大村を、第二次長州征伐で幕府が大軍で攻め寄せ、長州藩を叩き潰そうとしているとき、つまり、その存亡をかけて戦わなければならないという藩の存亡をかけた場面で、長州藩はいきなり大村を軍の総司令官に置き、対幕府との戦いのための作戦を立てさせました。

 

そして事実、幕府軍に勝ちました。

 

長州藩は、どうしてこんな思い切ったことができたのでしょうか。

 

この答えは、「大村に任せれば勝てると思ったから」ということになるはずでしょう。

 

では、なぜ、医者である大村に軍を任せれば勝てると思うことができたのか?

 

こんなことを、大村益次郎という人物を知った時に思いました。

 

人材不足?

 

最初、長州藩には他に任せられるだけの人がいなかったのかと思いました。

 

この点、確かに、この第二次長州征伐の時点で、長州藩は優秀な人材の多くを失っていました。

 

とはいえ、この時点では、既に高杉晋作がつくった奇兵隊を率いて長州藩内の佐幕派と戦った山縣有朋がいました。この山縣は、その後日露戦争においては参謀総長になる人物です。

Yamagata Aritomo.jpg

(上の写真は山縣有朋です。)

 

山縣でよかったのではないでしょうか?というよりも、適任だったのではないでしょうか?

 

しかし、結果としては、大村が司令官に選ばれています。大村の何がそう思わせたのでしょうか。

 

私はこの点がずっと不思議でしょうがありませんでした。

 

洋学の勉強に明け暮れた青春時代

 

大村は若いときに、大阪の「適塾」という蘭学塾に入塾します。そこで西洋医学を学び、将来は鋳銭司村で村医者になることが目的でした。

(上の写真は現在も残る大阪の適塾です。中に入って見学することもできます)

 

適塾では、医学に限らず、様々な西洋の学問を学んだようです。

 

適塾はこの時期、多くの西洋の学問を志す優秀な人材が全国から学びに来ていたようです。

 

大村は大変優秀だったようで、適塾の塾頭にもなりました。ちなみに、大村の少し後に、この適塾の塾頭になった人には、福沢諭吉がいます。

(上の写真は若き日の福沢諭吉です)

 

その後、大村は地元の鋳銭司村に戻ったのですが、家業の村医者はあまりうまくいかなかったようです。大村は、医学の知識は申し分なかったようですが、あまり診察は好きではなかったようです。

 

そんなある時、大村は宇和島藩へ行くことになりました。宇和島藩は、ペリーが乗ってきた蒸気船を自分の藩でも作ってやろうと思い、そのための人材を探していたのです。大村が候補に挙がり、大村は宇和島藩に蒸気船を作りに行きます。そして、何とか蒸気船を作ることに成功します。

 

その後、幕府の蕃書調所でも働きます。蕃書調所とは、江戸幕府直轄の洋学研究教育機関です。やがて敵となる幕府で働いていたこともあったのです。

 

大村は、洋学技術の講義や西洋の書物の翻訳の仕事などをしていたようです。

 

その間、長い間、長州藩は大村のことを特段認識していませんでした。

 

外国語の文章を理解するということ

 

私は電機メーカーに入社して以来、ずっと法務部門で仕事をしていました。主な仕事は、契約検討や交渉の支援でした。

 

特に海外案件が多い会社だったので、チェックする契約書は、英語で書かれているものが多かったです。

 

私は、英語が全くといってよいほどできませんでした。TOEICは400点代でした。本来は、このレベルの英語力では英文契約書をチェックしてはいけないのだろうと思いました。

 

しかし、上司からは、「やっているうちに慣れる」と言われ、ほぼ毎日のように英文契約書を読んでいました。

 

最初はやっぱり全然理解できませんでした。全ての単語を辞書で引き、その意味を繋げてみても、意味が通る文章になりませんでした。

 

あまりに読めないので、英語が得意な同期に、ある英文契約書を全て日本語に翻訳して欲しい、とお願いしたこともあります。もちろん、「ちゃんとお礼はする」と言いました。

 

しかしその同期は、あっさり断りました。理由は、「自分は和文の契約書を読んだことも無いので、英語で書かれた契約書を正確に理解できるとは思えない」というものでした。

 

僕はそのとき、その同期のことを、正直、「ケチな人だな」と思いましたが、同時に、この同期の言葉で何かヒントを得たような気がしました。

 

いきなり知らないことを外国語で理解するのは難しいのかもしれない。逆に、まずは日本語で書かれた契約書を完璧に理解できれば、英語の契約書も理解しやすくなるのではないか?」そう思ったのです。

 

日本語の契約書だろうが、英語の契約書であろうが、契約書であることに違いないのだから、どちらも同じようなことが書かれているのだろう。そうだとすれば、日本語の契約書について完璧に理解できれば、英語の契約書の文章も、日本語の契約書でいうところのあれと同じか、といった具合に理解できるようになるのではないか、と思ったのです。

 

この読みは、正解でした。それまでは、全ての英単語を引いても意味が分からなかった条文の意味が、よく理解できるようになってきたのです。

 

単語の意味を予測することも徐々にできるようになってきました。

 

その結果、英文契約書の概要をまとめる力や翻訳する力も急速についてきました。

 

つまり、単に機械的に英文契約書を日本語に翻訳するだけでは、ぎこちない日本語になり、第三者が読んだときに意味が分かりにくい文章になります。しかし、一読了解できるように、厳密に翻訳しただけではかえって理解の妨げになるような文言はあえて書かないとか、説明があった方が理解しやすいと思える部分には、適切に補則説明を入れられるようになりました。

 

そうして、英文契約という限られた世界においては、自分の英語力は大分ましなレベルになってきたように思えたころ、ある営業の方が英語の契約書を翻訳したものをチェックしてほしいと頼まれました。その営業の方は、帰国子女の方でした。

 

最初私は、自分がチェックする必要はないだろうと思っていました。

 

というのも、帰国子女であれば、むしろ自分よりも立派な日本語に翻訳されたものが出てくるのだろうと思ったのです。「帰国子女はやっぱり違うな」そう思わせられるのだろうな、と思っていました。

 

しかし、その帰国子女から出てきた翻訳は、恐ろしいほど理解しにくいものでした。

 

その理由は、その帰国子女は、まだ入社して間もないため、そもそも契約書とはどういう文書なのか、普通どういう言葉が契約書には使われるのか、といったことがよくわかっていなかったため、とにかく英語を日本語に機械的に翻訳しただけの文章になってしまっていたのです。

 

だから、あえて訳さずに省くとか、英文にはないものの、補足説明として追加する、といったことは全くなされていない翻訳になっていました。

 

これを見た時、「英語ができるからといって、英文で書かれている文章を適切にまとめたり、訳したりできるわけではないのだな」と思いました。

 

その後、他にも、契約書をさほど扱ったことがない人達が契約書をまとめたものを見たことが何度もありますが、やはりそういう人たちのまとめや翻訳というのは、どこかわかりにくいものになっていたように思います。

 

そのうち、契約書のまとめや翻訳を見れば、それをした人が、果たして契約書をどの程度理解しているのかがだいたい予想できるようになってきました。

 

そうなってから、ふと、大村のことを思い出しました。

 

もしかして長州藩の中で、大村の翻訳したもの、特に兵学書に関するものを読んだ者がいたのではないだろうか?

 

そして、その翻訳されものは、機械的に訳しただけといったわかりにくいものではなく、兵学に素人の人が読んでも、その内容が理解できるほどのものになっていたのではないだろうか。

 

予想

 

以下は、私の勝手な予想です。

 

大村は、大阪の緒方洪庵の適塾に入った段階で、ある程度の医学の知識は持っていたでしょう。もちろんそれは日本の医学の知識です。

 

そのため、オランダ語で書かれた医学書を読んだときにも、ある程度は理解しやすかったと思います。

 

しかし、オランダの医学書にしか書いていないような事項については、大村もかなりの精読の末にようやく理解できたという経験をしたことでしょう。

 

大村はその時、外国語で書かれた書物を理解するということの難しさを、身をもって知ったのではないでしょうか。

 

つまり、「文法がわかった」とか、「単語の意味がなんとなく分かる」といったことだけでは、外国語で書いてある文章の意味を本当の意味で理解することは出来ない、ということを知ったのかもしれません。

 

そして、兵学書をオランダ語や英語で読む際にも、当然同じような壁にぶち当たりました。

 

そのため、彼はまず、日本や中国の代表的な兵学書を精読したのかもしれません。

 

その上で、オランダ語や英語の兵学書を読む。

 

日本や中国の兵学書とも比較しながら読む。

 

そういうことを地道にこなすうちに、大村は、「兵学とは何か」というものを掴んでいったのではないでしょうか。

 

そうしていくと、外国語で書かれた兵学書の内容が、如何に日本のものと比べて進んだものであるかを知るに至ったことでしょう。

 

もちろん、日本の武士のほとんどはオランダ語も英語も読めないのですから、彼らはせいぜい日本や中国の兵学書を知っているレベルで止まっていました。

 

そこにいくと、大村は西洋の進んだ兵学知識を得ることができていました。日本の兵学思想の何が西洋と比べて足りていないか、という点までわかるようになっていました。

 

このレベルになると、大村は、もはや武士では太刀打ちできないほどの戦略家・戦術家になっていました。

 

そんな大村が翻訳した兵学書の内容は、もちろん理解しやすく、しかも兵学の本質をついている内容になっていました。

 

そして、それを作ったのは、武士ではなく、医者でした。

 

そのことに気が付いた長州藩のある者は、「大村は只者ではない」と思い、そんな大村を司令官にすれば間違いない、と思うようになった・・・。

 

こんな感じで、大村はその能力を長州藩に見いだされたのではないでしょうか。

 

この点、司馬遼太郎氏の「花神」では、幕府の勝海舟が、大村益次郎が長州藩の総司令官になったと聞いた時、次のように言ったとされています。

 

「長州藩に村田蔵六(名前を大村益次郎に変える前の名前)がいる限り、長州は負けない」

 

本質は何か?

 

大村が長州藩で総司令官になっていなければ、長州藩は第二次長州征伐を生き抜くことは難しかったでしょう。

 

そして大村益次郎が西洋の書物から西洋式軍事の本質を学び取ることができないでいたら、討幕軍の総司令官になどなれなかったことでしょう。

 

長州藩が大村を見出したことは偶然かもしれませんが、私はこの大村益次郎から、「本質をつかむ力」の重要性と威力を学んだような気がします。

(上の写真は、上野方面を見つめる靖国神社の大村益次郎像です)

 

普段の仕事でも、「この仕事の本質はなんだろう?」と自分に問いかけながら取り組みたいです。

 

 - 歴史上の人物・出来事から学んだこと