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戦略的に逃げることの実例

      2016/12/02

 

「逃げてはいけない」

 

こんな言葉をよく聞きます。

 

また、そう言って、つらい局面にいる人に励ます人もいます。

 

しかし、こんな言葉もあります。

 

「逃げるが勝ち」

 

確かに、いつでも、どんな場合にも逃げていたら、いい人生はおくれないでしょう。

 

ちょっと嫌なことがあると逃げる、苦労したくないから逃げる。

 

これでは自分が欲しいものを得ることはできないですよね。

 

でも、「勝つための逃げ」というのもあるとは思えないでしょうか?

 

歴史を見ると、戦略的に逃げていた人たちがいることに気が付きます。

 

彼らは、勝つために、あえて逃げました。

 

そして逃げた結果、のちに勝利を手にしました。

 

逃げていなければ、おそらく負けていたでしょう。

 

今回は、私が「こういうのを戦略的に逃げるというのか!」と感じた歴史上の人物のある行動についてご紹介したいと思います。

 

 

征韓論

 

征韓論という言葉を聞いたことがありますでしょうか。

 

これは、明治になって起きた論争です。

 

征韓とは、「韓国を征伐せよ」という意味です。

 

つまり、征韓論とは、韓国を征伐するか否かについての議論を指します。

 

韓国はこの時、かつての日本と同様に鎖国をしていました。

 

その鎖国していた韓国を、当時の日本は開国させようとしました。

 

この征韓論が活発に議論されたのは、右大臣である岩倉具視、大久保利通、木戸孝允といった明治政府の主力メンバーが欧米視察のために外遊していた明治6年のことでした。

 

大久保たちは、外遊に行く前に、「外遊中の国事はいっさい新規のことを決めざること」と日本に残る明治政府のメンバー、具体的には以下の者たちにこう約束させました。

 

太政大臣 三条実美

参議   西郷隆盛

板垣退助

後藤象二郎

大隈重信

大木喬任

江藤新平

 

いってみればこの留守内閣において、西郷は、「自分が韓国に行って話をしてくる」と言い始めたのです。

 

しかし、もしもそれをすれば、韓国側は西郷を殺すだろうと思われていました。

 

西郷が殺されたらどうなるか?

 

日本は韓国に対して戦争を仕掛けざるを得なくなります。西郷ほどの重要人物が殺されたのに黙っているわけにはいかない、と日本中が考えることになるからです。もしも西郷が殺されても韓国と戦おうとしない場合、明治政府は国民から多大な非難を浴び、瓦解してしまいかねません。その意味で、「西郷が韓国に行けば戦争になる」と思われていました。

 

しかし、最終的に戦争になるとわかっていても、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平が西郷の案に賛成します。西郷を含めれば、多数決で可決です。

 

一方、征韓論に反対する人たちは、日本が戦争を始めると、戦争への出費やら何やら大変な状況になり、その時はその時で、最終的には、明治政府が壊滅してしまうのではないかと恐れました。

 

そこで、事の重大さを認識した右大臣三条実美は、大久保らが帰国するまで最終的な決定を延ばしました。

 

 

大久保利通の戦略的な逃げ

 

その大久保は、自分の留守中に日本の政情が不安定になっていることを知り、予定を変更し、岩倉や木戸と別れて日本に戻ってきました。

 

大久保は、外遊中に西洋の進んだ文明を目の当たりにし、日本がいかに未開であり国力がひ弱であるかを知り、先進諸国の制度や施設を一日もはやく取り入れるべきだと考えていました。そのため、「韓国と戦争をしている場合ではない」と思っていたのです。

 

そして、大久保は、他の外遊組、特に右大臣である岩倉具視と参議である木戸孝允が帰国する前では、多数決で征韓論賛成派が勝ってしまうと思いました。

 

そこで彼が帰国後にしたことの第一は、次のようなものでした。

 

病気と称して家に引きこもり、公的な場に一切姿を現さない

 

そして、第二には、「静養のため、近畿の名所旧跡をまわりたい」と言い、箱根、富士登山、その後は近江、大和で悠々と日を過ごし、さらに和泉、紀州へ行き、そのあたりの山々で鉄砲猟をしてまわりました。

 

これにより、「隠退をするのではないか?」と思われたほどでした。

 

しかし、これは、「岩倉具視と木戸孝允が戻るまでの時を稼ぐこと」が目的でした。

 

 

岩倉具視の戦略的な逃げ

 

一方、岩倉具視は、帰国後、彼は彼で策謀をめぐらします。

 

西郷たちが一日も早く征韓論の件について最終的な結論を出そうとしているのを知り、今少し時を稼ぎ、彼らを冷静にさせようと思いました。

 

そのため、岩倉具視が外遊中に彼の父が亡くなったことを持ち出して、喪に服したい、と言って7日間の休暇をとりました。

 

そしてその間に、様々な政治工作を行います

 

こうして、岩倉具視が帰国後に一時は西郷の主張が通るかに見えた瞬間もありましたが、最終的には、この征韓論戦に岩倉と大久保はきわどく勝利します。

 

 

彼を知り己を知れば・・・

 

私は大久保利通と岩倉具視の二人の「逃げ」について知ったとき、とても驚きました。

 

正直、「ずるいな」とも思いました。

 

しかし、もしも彼らが当時あのような逃げをしなければ、おそらく西郷は韓国に行っていたのではないかと思えます。そして、大久保の懸念通り、戦争になっていたかもしれません。

 

そう考えると、彼らの逃げは、勝つために必要な逃げだったのでしょう。

 

そして、彼らの逃げは、大局をみて、何が日本にとってよいことなのか?を考えたうえでの逃げでした。

 

孫子は、「彼を知り己を知れば百戦あやうからず」と言っています。

 

これは、「自分と相手の力量を知れば、今戦えば自分が負けるということに気づくことができ、その場合は戦いを避けるから負けない。一方、相手との差を知った上で十分に準備して戦えば、これもまた負けない。」という意味だと思います。

 

この時の大久保と岩倉の対応は、まさにこれを実践したものだったのではないでしょうか。本当に征韓を阻止したい!と思ったからできたことなのではないでしょうか。

 

玉砕するとわかった上での無謀な戦いではなく、十分に戦略を練った上で戦うように心がけたいですね!

 

 - 歴史上の人物・出来事から学んだこと